居酒屋にススメ




居酒屋にススメ
(酒文化研究所 月刊「酒文化」より転載)


路地の奥には謎が住む
大阪は京橋、京阪とJRとの乗り換え駅。この街は東京で言うなら新橋か。大江健三郎の「日本アパッチ族」の舞台。その昔砲兵工廠のあった地。さてはこの地に、世にも珍しい「世界最強」の寿司屋がある。どうすごいかと言えば先ず、客の入っているのを見たことがないし、また客がいたという話を聞いたこともない。いつぞや夏の暑い日、ちらりカウンターに客の姿。これから岡室酒店にコップ酒を飲みに行く道すがら。「すわ、一大事、大ニュース」。自転車を降り、店に近づく。ちょっと店から離れた所に自転車を置く。通行人風情で店内を覗く。心のときめきをおさえ、店内を見やれば半分開けられた戸から客の影。何のことはない。手持ちぶさたに主人がカウンターから出て客席に回り、客を装い座っているだけのこと。客がいるだけで驚き、ニュースになるくらいだから相当なもの。

この店、やたら謎が多い。いや、謎だらけなのだ。謎を寄せ集めて出来ているのか、など思ってみたり。この店、外から見えるように熱帯魚の水槽のようないけすがしつらえてある。だが、このいけす、寿司ネタの魚が泳いでいるのを見たことがないし、また見た人もいない。ある日、この近くの広告制作会社のOさんが言うには、先日この水槽に金魚が泳いでいたそうな。「え、まさか金魚の寿司」と耳を疑ったが、のちにこの解答はOさんより導かれた。それはこうだ。「この水槽、作りつけで水が入っているが水を換えるのは手間。放っておけば当然ボーフラが湧く。ボーフラを退治するのに金魚を放つ」のだそうな。なるほど、納得。納得。更にこの水槽の近くに国宝級のサンプルケースがひっそりと世を忍んで通りに面している。汚れて曇りガラスのようになった中に一応申しわけ程度にプラスチックの寿司桶。この中に入っているものは何だ。よく目を凝らすと一応寿司のサンプルらしい。見れば5ミリほど綿ぼこりが積もる。ほこりと煤にまみれ米粒の間が黒くなったシャリに、焼けこげたビニ−ルを切って貼り付けたような寿司のサンプル。これはもう圧巻だ。この世のものとは思えない。芸術的とも言えないことはない、が。

ある日、意を決してこの店の客となる。ガラスケースの中には氷の柱状のものとサザエ。他にネタは見当たらない。寿司を頼もうにもネタがない。氷の柱状のものはいつ入れたか解らないアナゴ。サザエは殻だけ。何のことはない。見せかけだけのネタだ。カウンターには袋に入ったままの食パンが転がっている。ガラスケースの上には段ボール紙に「おでん」と書いて上から麻ひもで吊してある。やむなくおでんを注文。ふといやな予感。見れば奥に1ヶ月以上も火を使った気配のないような鋳物のガスコンロ。その上に一応「おでん鍋」が乗っている。主人は無口で徳用マッチで火を付ける。お、湯気が出た、湯気が。主人にからしを頼むと、小瓶に入ったマスタード。ほうなかなかおしゃれだな、和からしをマスタードの瓶に入れるなんて。随分時間が経って出されたおでん。大根、厚揚げ、玉子を見れば煮詰まって真っ黒。大根は筋の部分だけ盛り上がり、まるで葉脈見本。先ずはと、厚揚げにからしをつけて食べる。そこに見たものは何と懐かしい「埃っぽい味」。更にからしと思ったのはマスタード。埃っぽいマスタード風味の厚揚げを堪能した。一体この店は何だ、何なのだ。謎の店だ。あまりの不思議さに目眩がしそうだ。だが何だか懐かしい。宇宙初源の彼方より繋がる味の懐かしさがある。


居酒屋の「本義」とは何か?
申し遅れたが、私は「酒屋の立ち呑み」を愛する自称「浪花の立ち呑み研究家」。
酒は売るほどある酒屋の立ち呑み。「正味の酒との対峠」に潔い響きを感じる。酒場から引き算をして最後に残るのは「一升瓶とコップ」。よく酒飲みということで「いい居酒屋は」と聞かれるが、チト自信がない。つまり椅子ありではなく、椅子なしのジャンルを得意とする私。だが考えてもみよう、もともと酒屋は樽から酒を計り売りしていた。ところがその場で飲ませるようになり、簡単な肴のようなものも出し始めたのが居酒屋の起源。「居ながらにして酒が飲める」酒屋がルーツではないか。つまり酒屋の立ち呑みの発展形が居酒屋ということか。もともと酒は一族朗党酒を酌み交わすか、晩酌。不頼の徒や無宿人、さらに奉公人は普段、酒にありつけない。「居酒屋」はまさにパッと開いた酒のパラダイス。ではなかったか。

私は大阪にきて30年になる。どうも「居酒屋」と言うより「赤ちょうちん」「縄のれん」の言い方の方が好き。何か暮らしの息吹のような感じがいい。酒仙の俳人、種田山頭火の世界の中核をなす「ほろほろ酔う」精神に近い味わいを感じる。何か「居酒屋」と聞いてイメージするのが、頼みもしない「突き出し」。縁の欠けた御影石模様のプラスチック鉢、タバコの焼けこげのついた中にぼろ布のように干からびたひじきの煮付けを押しつけられる悪夢がよぎる。粋な伝統の居酒屋を擁する江戸の酒徒には無縁の事と思うが。関西でも大阪の明治屋、神戸の森井本店などが有名だが、このあたのはいくらでも世に出まわっている。「居酒屋本」「グルメ本」に任せよう。私がこれまで「酒屋の立ち呑み」を求めて彷徨った中で、ふと迷い込んだ路地の傍らに潜かにたたずむ味のある居酒屋をすこし紹介するとしよう。



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